常山城

別名-   付近住所 岡山県玉野市用吉 現在-
2009/4/11 碑・案内板アリ 日本城郭大系


上野土佐守
上野肥前守
上野隆徳

毛利城番

戸川秀安
戸川達安

伊岐真利
 「児島富士」と呼ばれるこの常山(標高307m)の山頂一帯に、「常山城跡」はあります。城郭は山頂の本丸を中心に合計14の曲輪で構成される、「連郭式山城」です。
 築城の時期は戦国時代の初めと推定され、上野氏・戸川氏・伊岐氏等の城主が知られています。女軍の戦いは1575(天正3)年のことで、この戦いで当時の城主上野氏は毛利氏によって滅ぼされました。その後、常山城は毛利氏の支配下に置かれましたが、毛利氏の築城技術と言われる竪堀や堀切の遺構は発見されていません。恐らく毛利氏以後城主となった宇喜多氏の家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備されたと思われます。
 常山城は児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点でしたが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、1603(慶長8)年に廃城となりました。城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと伝えられています。

常山城小史
年号 事項
1492 明応元年 上野土佐守・肥前守、常山城に拠って児島の支配を始める。
1554 天文23年 この頃、上野隆徳と備中の三村家親の娘鶴姫が結婚。
1571 元亀2年 毛利氏が児島を勢力下に置く。
1572 元亀3年 宇喜多直家、毛利方となる。
1574 天正2年 備中松山城主(高梁市)三村元親、織田信長方となり、11月より備中兵乱始まる
1575 天正3年 6月2日、三村元親自刃 6月7日、上野隆徳ら自刃。常山城落城。
毛利氏より山本四郎左衛門・渡辺伊豆・冷泉元満ら常山城番。
1577 天正5年 この頃、戸川秀安、常山城主となる。
1579 天正7年 宇喜多氏、織田方に付き、備中辛川で合戦起こる。
1581 天正9年 2月、毛利元清、麦飯山城に布陣。宇喜多基家・戸川秀安ら八浜両児山城に出陣。八浜合戦で宇喜多基家戦死。
1582 天正10年 5月、備中高松城の水攻め。6月、本能寺の変。
1585 天正13年 児島全郡が宇喜多領となる。
1597 慶長2年 9月6日、戸川秀安卒(60歳)。
1598 慶長3年 常山城主、戸川達(逵)安ら、主君宇喜多秀家と対立。
1600 慶長5年 1月、徳川家康、戸川達安らを預かる。9月、関ヶ原の戦い。10月、小早川秀詮(秋)岡山城主となり、金川・虎倉・常山の三城のみを残して他を破却する。
1603 慶長8年 池田忠継、岡山城主となり、常山城廃城と決定。

常山合戦
 ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えていました。本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、城主隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。しかし、女性達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
 昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や紅葉に囲まれて静かに眠っています。

             

腹切岩
城主上野隆徳切腹の場所と伝えられる

      

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